ヒロシマ2(原爆投下に至るまで)
アメリカはドイツに先を越されないように、昭和17年6月、原子爆弾の開発をスタートしました。世にいわれる「マンハッタン計画」の発足です。その後、大企業の協力や、「産・軍・学」からの12万人以上の動員、当時のお金で20億ドルをかけて、昭和20年、ウラン爆弾1個とプルトニウム爆弾2個が完成しました。
原子爆弾1個の大きさは、どちらもたかだか人間の2倍ぐらいのものです。それが広島の街を一瞬にして破壊する威力を持っているのです。まさに「核」の恐ろしさを思い知らされます。投下目標地域は当初17都市が選ばれました。その中から京都、広島、小倉、横浜が選ばれ、最終的に広島、長崎、小倉と決定しました。「原爆の効果を正確に測定する」ために、その後は決定地域の空襲をやめたとのことです。なんとも理解しがたい話です。
事実、中沢啓治氏の「わたしの遺書」にも、「当時、近くの呉市などには攻撃がありましたが、広島は軍部があるのに、空襲警報が鳴ってもなぜか一度も襲ってきませんでした。『広島に来るのは偵察機なんだ。広島は安全だ』という感覚が、人々の間にでき始めていました」とあります。
そして運命の8月6日、午前1時45分、原子爆弾を積んだB29「エノラ・ゲイ」は太平洋のエニアン島を飛び立ちました。午前7時15分、先に飛んだ調査機から「広島の天候は良好」との報告が入り、この瞬間、広島の運命が決まりました。
「わたしの遺書」では、「前日の夜は夜中中、空襲警報が鳴り響いて眠れませんでした。いま思うと、あれも米国の作戦のひとつだったのではないでしょうか?わんわんわんわんサイレンが鳴って、眠くて眠くてどうしようもなかった」と書いてあります。
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