« 2013年5月 | トップページ | 2013年7月 »

2013年6月25日 (火)

本物の謙虚さ

世の中には、「褒められ上手」の人と「褒められ下手」の人がいるように思います。例えばある方を褒めた場合、褒められ上手な人は「ありがとうございます」と素直に笑顔で答えてくれます。反対に「いいえ、そんなことないです」という言葉が返ってくる方もいます。日本では「謙遜が美徳」とされているところがあるので、そのようになるのかもしれませんが。

ではどちらが、褒めた人にとって気持ちがいいでしょうか?私の場合は間違いなく、素直に喜んでくれる方です。そのような人は、自己肯定感も高くいたって素直な感じがします。後者の人は、一見謙虚のようにみえますが、ときに自己承認度や自己肯定感が低い場合もあるように感じます。

それでは、本当に謙虚な人はどのように答えるでしょうか?そのような人は、まず物事をありのままに観ます。また何事も素直に受け入れます。もし褒められた場合は、「ありがとうございます。褒めていただいてすごく嬉しいです!」・・・おそらくこのように答えるのではないでしょうか。謙虚な人には、感謝の心、素直さ、明るさ、純粋さ、豊かな感性、笑顔、ひたむきな心などが、いつも溢れているように感じます。ぜひとも『本物の謙虚さ』を身に付けたいと思います。

| | コメント (0)

2013年6月23日 (日)

私の座右の銘

20年以上も前になりますが、約1年毎日、稲盛和夫氏の講演CDを聴いていました。ある大きな障害を前にして、「果たして自分はどこに向かえばいいのか?」と悩み、その答えを探し求めて、日々数十枚のCDを入れ替わり聴き続けた訳です。

あるCDを聴いたとき、内村鑑三著の「代表的日本人」という本を紹介する話がありました。その中で二宮尊徳翁の話になり、「至誠の感ずるところ、天地もこれがために動く」という言葉が飛び出してきました。「う~ん!“天地も動く”なんてすごいことだ。“至誠の感ずるところ”ではそうなるのか???」と、感動を覚えた次第です。

「至誠」を辞書で調べると「極めて誠実な心」と出てきます。当時の私は、「組織を動かすのは“戦略”や“戦術”ではなく、最終的に“至誠”が人の心を動かすのだ」と理解しました。そしてその後、私が社長になったとき、『至誠』という文字を「自分の心」として、社内数ヶ所に掲げた訳です。

社長になって15年・・・今一度初心に帰り、「誠実」「正直」「勤勉」「努力」「忍耐」といった日本人ならではの「心」を、もう一度大切にしていきたいと思います。

| | コメント (0)

2013年6月22日 (土)

映画『フラガール』

今月上旬の仙台視察の帰り、バスの中で映画「フラガール」を観ました。初めて聞くタイトルだったので、それほど期待もせず映像を眺めていました。炭鉱や炭鉱町などの昭和の懐かしい映像が流れ、「社員減らし」のシーンから映画が始まりました。小学校時代から「地理」が好きだったので、常磐炭鉱が閉山に追い込まれていった事実は知っていました。

この映画は「実話」を元に作られたそうです。経営危機を迎えた常磐炭鉱が、そこで働く人々の将来のために、社運を賭けて「常磐ハワイアンセンター(現スパリゾートハワイアンズ)構想」を立ち上げました。石炭を掘るにはやっかいだった温泉を利用して、北国である福島に「常夏の楽園・ハワイアンセンター」を築くという計画です。物語はその構想段階から、いくつもの障害を乗り越えて、ようやくセンターオープンまでこぎつけた・・・それらの様子を描いたものです。

これまでに観た日本映画の中で、3本の指に入るぐらい大きな感動を覚えました。炭鉱町の若い女性や男性たちの、「みんなで町を救っていこう!」という姿がとても素敵でした。バスの中でしたが、彼ら彼女たちの純粋な美しさに、何度も涙してしまいました。今でもユーチューブの「感動のラストシーン」には泣けます。また「いわき弁」でしょうか?方言の「がんばっぺ~」、「○○してくんちぇ」という言葉が大好きになりました。温泉も好きなので、ぜひ「スパリゾートハワイアン」に行きたいと思います。

キャストは常磐炭鉱元社長役に岸部一徳、ハワイアン講師役が松雪泰子、センター第1期生役は蒼井優、その他、豊川悦司、富司純子など、豪華顔ぶれです。南海キャンディーズのしずちゃんも大変いい味を出していました。初めて知った女優さんたちですが、全員のファンになりました。まだの方にはぜひお勧めの映画です。ぜひご覧ください。

| | コメント (0)

2013年6月11日 (火)

仙台の復興視察

先週は加賀市の建設協会で、東北・仙台の「復興工事」の視察に行ってきました。初日は「仙台市閖上(ゆりあげ)」地区の堤防の復旧、漁港の岸壁復旧の2ヵ所を視察、2日目は景勝地「松島」を観光してきました。

堤防は津波被害の大きかった仙台湾の南部海岸に造られています。仙台市から名取市、岩沼市、亘理町、山元町に至る、全長30キロに及ぶ壮大な工事です。テレビなどで、復旧がなかなか進まないと言われていますが、道路や橋、今回の堤防、農地や防風林など、インフラ復旧はかなり進んでいます。この堤防工事も6割以上の進捗率です。

ただし労働力の不足に加え、資材が大幅に不足しています。とくに目立っているのがコンクリートで、設計段階ではコンクリート製だった工事も、コンクリートブロック製に変更して進められている状態です。港の岸壁修復でも、コンクリート不足のため、通常の4~5倍の日数がかかっているとのことでした。

進んでいないのは住宅の復旧です。どこの市町村も同じですが、行政側の意見と住人たちの気持ちがまとまらないのです。そのため流された町は、ほとんど手つかずの状態です。港工事の付近では、今でも海に飛び込む人がいるそうです。「その人たちを助けることも自分の義務です」と、現場監督さんが話しておられました。

2日目に行った塩釜や松島は、ほとんど震災の被害を受けなかったそうです。それは岸から見える多くの島が、防波堤の役割をしてくれたからです。しかしその島に住む人々は大変でした。大津波がすべての島を直撃したからです。「島には約900人が住んでいました。しかし犠牲者はゼロでした。その理由は、“安全な高台に逃げろ!”という指示を、全員が素直に守ったからです」と、ガイドさんが話しておられました。

東日本大震災は、地域によって明暗が分かれました。家や物やお金をなくしても、家族や親戚、友人など、仲間がいる方々は、やっぱり強く頑張っておられます。「まずは人の安全を第一に」・・・そのことを改めて考えさせられた視察でした。

| | コメント (0)

2013年6月 9日 (日)

ヒロシマ1(はじめに)

以前に、広島の平和記念資料館に行ったことを書きましたが、実はそこで2冊の本を買ってきました。1冊は資料館の展示物がすべてまとめられた「ヒロシマを世界に」という写真集、もう1冊は有名な「はだしのゲン」の作者、中沢啓治氏の「わたしの遺書」です(当時6歳で被爆)。この数日それを読んでいたのですが、今何らかの感情が湧き上がってくるのです。

原爆投下からは68年も経ちました。あの日のことを体験された方は、果たして何人おられるのでしょうか?広島は活気のある素晴らしい街で、「原爆は過去のこと」のようにさえ感じました。しかし2冊の本を読んで、「日本人は原爆のことを忘れてはならない!」と強く思いました。同時に「後世の私たちも、広島・長崎の原爆を知らなければならない!」とつくづく思った次第です。

これから私が知りえた「広島の事実」を書いていきたいと思います。資料館で観たことと、2冊の本を読んだだけなので、内容が浅いかもしれません。またブログには適切ではないかもしれません。それでもよろしければ読んでみてください。

| | コメント (0)

ヒロシマ2(原爆投下に至るまで)

アメリカはドイツに先を越されないように、昭和17年6月、原子爆弾の開発をスタートしました。世にいわれる「マンハッタン計画」の発足です。その後、大企業の協力や、「産・軍・学」からの12万人以上の動員、当時のお金で20億ドルをかけて、昭和20年、ウラン爆弾1個とプルトニウム爆弾2個が完成しました。

原子爆弾1個の大きさは、どちらもたかだか人間の2倍ぐらいのものです。それが広島の街を一瞬にして破壊する威力を持っているのです。まさに「核」の恐ろしさを思い知らされます。投下目標地域は当初17都市が選ばれました。その中から京都、広島、小倉、横浜が選ばれ、最終的に広島、長崎、小倉と決定しました。「原爆の効果を正確に測定する」ために、その後は決定地域の空襲をやめたとのことです。なんとも理解しがたい話です。

事実、中沢啓治氏の「わたしの遺書」にも、「当時、近くの呉市などには攻撃がありましたが、広島は軍部があるのに、空襲警報が鳴ってもなぜか一度も襲ってきませんでした。『広島に来るのは偵察機なんだ。広島は安全だ』という感覚が、人々の間にでき始めていました」とあります。

そして運命の8月6日、午前1時45分、原子爆弾を積んだB29「エノラ・ゲイ」は太平洋のエニアン島を飛び立ちました。午前7時15分、先に飛んだ調査機から「広島の天候は良好」との報告が入り、この瞬間、広島の運命が決まりました。

「わたしの遺書」では、「前日の夜は夜中中、空襲警報が鳴り響いて眠れませんでした。いま思うと、あれも米国の作戦のひとつだったのではないでしょうか?わんわんわんわんサイレンが鳴って、眠くて眠くてどうしようもなかった」と書いてあります。

| | コメント (0)

ヒロシマ3(原爆投下)

昭和20年8月6日、月曜日の朝は快晴で、真夏の太陽が昇って気温はぐんぐん上昇しました。午前7時9分、警戒警報のサイレンが鳴り、市民は防空壕に避難しましたが、7時31分に解除されました。人々は家に帰宅し、遅めの朝食を摂ったり、仕事に出かけたりしました。

午前8時15分、エノラ・ゲイの爆撃手は、投下目標のT字型の相生橋を照準に捉えて、自動装置のスイッチを押しました。原子爆弾は機体から離れて落下していきました。43秒後、相生橋の南東300メートル、上空600メートルで、原子爆弾は炸裂しました。

「わたしの遺書より」~「8月6日は、朝の空襲警報が解除になったので、いったん家に帰ってから小学校に登校しました。ふと空を見上げると、真っ青な空にスーッとB29が入ってきました。『あんなに堂々と入ってくるのに、どうして空襲警報がならなかったのか?』、これはいまだに謎です。もしあのときサイレンが鳴っていたら、みんなが防空壕に避難して、多くの広島市民が助かっていたはずです」

| | コメント (0)

ヒロシマ4(爆発!)

原子爆弾は地上600メートルの上空で、目もくらむ閃光を放ち、小型の太陽ともいえる灼熱の火玉を作りました。火玉の中心温度は100万度を超え、1秒後には3000度~4000度の熱線、19トン/平方メートルの爆風、すさまじい放射線が一気に地表面を襲いました。

原爆による被害の特質は、大量破壊、大量殺りくが瞬時に、かつ無差別に引き起こすことです。さらに放射線による障害が、その後長期間にわたり、人々を苦しめたことにあります。

「わたしの遺書」~「原爆搭載機B29が侵入してきて、ぼくの後方に消えた次の瞬間、パッとものすごい光が目に入りました。ぼくはいまでも目を閉じると、あのときの炸裂した光の色が、ありありとよみがえります。白を中心にして、まわりが青白いリンが燃え狂ったような、外輪が赤とオレンジをうわっと混ぜたような、すさまじい『火の玉』でした」

~「気を失ったあと、どれぐらい時間が経ったかわかりません。気がついたら、あたりは夜のように真っ暗です(爆発でできた「キノコ雲」のために暗くなった)。しばらく経ったころ、突然黒い雨が降ってきました。重油のような真っ黒な重たい雨です。服が真っ黒に変わっていきました。後にこれが、人間の細胞を破壊する放射能を含んだ雨だと、知ることになります(「キノコ雲」のために急激に気温が下がり、そのために大雨が降ります。よく知られる「黒い雨」です。爆発の20~30分後から2時間以上降り続きました)。

| | コメント (0)

ヒロシマ5(爆発直後)

原子爆弾の爆発点は数十万気圧という超高圧となります。爆風は3.7キロまで達しました。半径2キロの地域は木造家屋が全滅、鉄筋コンクリートの建物は崩壊はしないものの、窓は全部吹き飛ばされ、内部はことごとく焼失しました。当時広島市には、約35万人の人が住んでいました。原爆で死亡し人の数は現在も正確につかめていませんが、昭和20年末(爆発から5ヵ月間)までに、約14万人が死亡したと推計されています。

「わたしの遺書」~「道を歩いていくと、黒い煙が立ち込める中から、ぼんやりと人のシルエットが浮かび上がってきました。『人だ』と思って近づいてみると、目玉が飛び出している人や、お腹から腸が飛び出している人が、右往左往していました。また、身体にびっしりとガラスの破片が突き刺さっている人もいます。そこから鮮血が噴き出て、服が真っ赤に染まっています。身体を動かすと、体内でガラスが触れ合って、“じゃりじゃり”と音が聞こえます。いかにたくさんのガラスが突き刺さっているかということです。さらに、一糸まとわぬ黒焦げの人たちは、ひたすら防火用水の水を飲んでいます。そのときにとても印象的だったのが、人間の声が一切しなかったことです。大惨事の映画などで『ワァー』とか『助けてくれー』と、叫び声を上げるシーンがありますが、本当に人間が極限状態のときには、そんな声を上げる余裕はないのです」

~「三千度以上の熱線を浴びた身体には、大きな水ぶくれがあちこちにでき、それが次々とつながってさらに大きな水ぶくれとなり、何かの拍子で皮膚が破けると、皮膚がだらーんと垂れ下がります。肩の皮膚、腕の皮膚、手の甲の皮膚がすべてむけて、皮膚が手の爪のところでかろうじて止まっています。手を下げると皮膚が地面を引きずるので痛い!そのためどの人もどの人も、やや前かがみで、腕を前に持ち上げて、まるで幽霊のような格好で歩いています。足がむけた皮膚は、1メートルぐらい地面を引きずっています」

~「そのうちに『みずー、みずー』という合唱のような声が聞こえてきます。ほかの言葉は一切ありません。私は路上で拾った鉄かぶとに水を汲んで持っていきました。うめいていた人たちは、がぶがぶとものすごい勢いで水を飲みます。けれどもそれから2秒か3秒すると、みんな「がくっ」と首がたおれて絶命しました。水を飲んだ人がこのように死んでいくので、すぐに「やけどをした人間には水を飲ますな!」といううわさが広がりました」

| | コメント (0)

ヒロシマ6(放射線被害)

原子爆弾の特徴は、通常の爆弾では起こらない大量の放射能が放出されたことです。放射線は人体の奥深くまで入り込み、細胞を破壊し、血液を変化させるとともに、骨髄などの造血機能を破壊し、肺や肝臓などの内臓を侵すなどの深刻な障害を引き起こしました。

爆発後1分以内に放射された初期放射線を受けた人は、致命的な影響を受け、数日のうちに死亡しました。また外傷はまったくなく、無傷と思われていた人々が、爆発後月日が経過してから発病し、死亡していった例も多いのです。原爆は、爆発後長期間にわたって残留放射線を地上に残しました。そのため救護活動に入った人々、肉親や同僚を探しに入った人々も、同じように発病し死亡していきました。

「わたしの遺書」~「あの日から21年が経って母親が亡くなりました。母は当時自宅で被爆しましたが、奇跡的に無事でした。最後は原爆病院に3年入院し、直接の死因は脳内出血でした。母が死んですぐ、ABCC(原爆傷害調査委員会)が花輪と香典を持ってきて、『医学の発展のため、お母さんの遺体を解剖させてください』としつこく迫りました。ABCCとは、原爆が人体にどんな被害をもたらしたのかを調査し、収集したデータを秘密裏にアメリカに持ち帰っていた機関です。たった1発の原爆のために、どれだけ多くの人間が殺されたか。どれだけ多くの人生が狂わせられたか。どれだけ多くの人々が原爆後遺症に苦しめられてきたか。救いの手を差し伸べる訳でもなく、自国の核戦争に備えて、被爆者をモルモット扱いにし、せっせと標本集めに奔走するアメリカに、心底怒りがこみ上げてきました。遺体を火葬したとき、驚いたことに骨がなかったのです。普通なら頭蓋骨、胸骨、手足とはっきり骨が残るはずです。放射能が骨を食いつくし、すかすかの骨になっていたのでした。原爆というやつは、大切なおふくろの骨の髄まで奪っていったのかと思うと、はらわたが煮えくり返りました」

| | コメント (0)

ヒロシマ7(終わりに)

このように、日本は世界で唯一の原爆被爆国となりました。広島や長崎は被爆都市となりました。原爆投下に際しては、すべてが意図的に計画的に進められました。アメリカは7月16日に原爆実験を行い、その破壊力のすさまじさを知り尽くしていました。

6月1日の暫定委員会で、「原爆の使用について、労働者の住宅に囲まれた軍需工場に、事前警告なしで行うべきだ」と決められました。開発に携わった科学者たちは、無警告の投下に真っ向から反対したそうです。無差別大虐殺と人体実験のなにものでもないと思います。すなわちこれが戦争なのでしょうか?

文章と写真と遺物と漫画だけを観ても、まさしくこの世の地獄のありさまでした。果たして・・・その場におられた方々の苦しみや悲しみは、どれほどのものだったのでしょう?私たちは、後世を生きる日本人として、このことをどのように受け留め、どのように考え、どのように行動していくべきなのか・・・あまりにも難しい質問を、投げかけられているように感じます。

| | コメント (0)

2013年6月 8日 (土)

わが社のソーラー発電

元々製材所からスタートした当社には、かなりひろい土地が余っています。何もしないで放っておいても草は生えるし、固定資産税もかかります。住宅地として整備して分譲するにも、売れる見込みもなく悩みの種でした。

昨年の6月、ソーラー発電のことを聞く機会があり、「グランド設置型ソーラー発電」が北海道で急増していることを知りました。2012年度中に申請すれば、電力会社が「40円+消費税」で20年間買い取ってくれる制度です。利回りは有に10%を超える計算になります。そこで「これはいい!」ということになり、検討を重ねて、今年2月に着工、4月末に完成した次第です。

ソーラーは2区画に分けて、A区画に46.08キロワット、B区画に51.84キロワットを、それぞれ設置しました。加賀市の年間予測発電量は102,252キロワット/アワーです。過去には「北陸は雪が降るので、ソーラー発電はタブー」と考えていましたが、雪下ろしをうまくすることで、かなりの発電量を見込めることもわかりました。そうしてこの5月、1ヵ月間の発電結果が出ました。なんと予測発電量を30%も超えていました。

グランド設置型ソーラー発電は、まさに田舎ならではの土地活用事業です。今年度から買取価格が「36円+消費税」に下がりましたが、コストの低減と性能アップで、現在もまずまずの事業になります。土地や屋根を遊ばせている方はおられないでしょうか?ご検討されることをお勧めします。

| | コメント (0)

2013年6月 7日 (金)

「理念と経営」経営者の会(その2)

先月末に2度目の「理念と経営・経営者の会」に参加しました。なんとさっそく「経営発表」が当たってしまい、(光栄というか、ビックリというか)・・・とにかくパワーポイントを準備していきました。その日は通常のメンバーさんに加え、オブザーバーさんも5名おられました。多くの経営者さんの前での発表は、結構手に汗にぎるものでした。

当社のことをあまりご存じない方もおられたので、まず創業から現在までの歴史を語り、最後に経営理念を元に、事業に対する私の考え方をお話させていただきました。与えられた時間は30分・・・かなり走った説明になりましたが、素敵な質問をふたついただきました。

ひとつは「幾度かの逆境を乗り越えることができた要因は?」、もうひとつは「価格競争に巻き込まれない戦略とは?」というものでした。簡単に書きますと、前者は「小さい頃から身に付いた“使命感”?」、後者は「お客様には価格を超える!つまり期待以上の“喜び”を提供する」とお答えしました。素晴らしい機会をいただきましたことに感謝いたします。

| | コメント (0)

2013年6月 6日 (木)

喜びが人を変える

当社の朝礼では、「経営理念の唱和」、「13の徳目朝礼」の他に、倫理法人会の「職場の教養」も読んでいます。昨日6月5日(水)の「喜びが人を変える」という項にとても感動したので、少し紹介させていただきます。

100年前に出版された小説「少女パレアナ」・・・両親を亡くした11歳の少女パレアナが、大人たちの心を次々と変えていきます。「どんなことにも必ず嬉しいところがある」という信念で、いろんな大人たちに関わり、「なんでも喜ぶゲーム」などを広めていく物語です。

文章の最後に次のように書かれていました。「その人の心が境遇をつくる。一見ネガティブな境遇でも、喜んでいると良い方向に展開する。喜びは人を強くするものだ」と。出版から1世紀を経た今も、この考え方は素晴らしいと思います。さらに「これこそ当社の“経営理念”そのものだ」と実感しました。ぜひいつもこのような気持ちでいたいものです。

| | コメント (0)

2013年6月 5日 (水)

2013・ユーミーオーナー会

先週の土曜日、恒例の「ユーミーオーナー会」が開催されました。今年で14回目となりましたが、本当に歴史を重ねたものです。通常の活動報告や活動計画が発表されましたが、オーナー会として「勉強会」や「入居者サービス」のイベントが目につきました。徐々にですが、「質の高い差別化された団体」に成長してこられました。当社としても嬉しい限りです。

総会の後は、船井総研による「賃貸経営者のための“満室”応援セミナー」、続いてクロダハウスによる「満室経営プロジェクト」の勉強会が行われました。講師も話されていましたが、この10年の「賃貸市場の変化」は凄まじいものがあります。特に福井県は、全国で最も厳しい地域です。それだけに、ご参加いただいたオーナー様は、真剣に聴き入ってくださいました。

夜の懇親会は、全員の方とお話ができました。みなさんそれぞれに都合をお持ちでした。建設当時はどちらかというと、当社に「お任せ」というところもありましたが、今はマンション経営に真剣に取り組まれておられます。方策はいろいろありますが、最も大事なことは「一緒に勉強すること」、そして「日々のコミュニケーションを大事にしていくこと」だと実感しました。「ユーミーマンションのオーナー様、みなさんが繁栄できますように・・・」、次の総会まで当社も鋭意努力を重ねて参ります。

| | コメント (0)

2013年6月 2日 (日)

スウェーデン金沢店・夏のオーナー様イベント

今日は、石川県のスウェーデンハウス・オーナー様のイベントがありました。去年から始めた工事と協力会が担当するイベントです。昨年は北陸3県のオーナー様を対象に、8月に能登で地引網を行いました。「今年は北陸3県それぞれでの開催」ということになり、金沢店がそのトップを切って行ったものです。

イベントの内容は「医王山ハイキングとバーベキュー」です。今回は7組25名のオーナー様にご参加いただきました。当社からは工事3名、新入社員2名と私の計6名、協力会からは12名のお世話をいただきました。3歳から70歳の一団で、まず散策コースを約2時間歩きました。

自然探検のプロのN君が、食用植物や野花、野鳥の説明などを詳しくしてくれました。「医王山」はその名の通り、200数十種類の薬草がある」とのことでした。途中、小熊の足跡にビックリ!!またカモシカがつくったであろうケモノ道など、スリリングな一面もありとても面白かったです。

歩き終わった頃には、ちょうどお腹が空きました。まさに絶妙のバーベキュー・・・山の中での食事はとても美味しかったです。大人も子供も全員が満足できたイベントでした。どうもありがとうございました。

| | コメント (0)

« 2013年5月 | トップページ | 2013年7月 »