黒四(2)大町トンネル
3,000メートル級の山々が連なる人跡未到の黒部峡谷に史上最大のアーチダムを建設する・・・セメント54万トン、砂利や砂を490万トン、2万トンの鋼材や、各種建設機械を必要とする・・・そのための絶対条件が大町トンネルの開通でした。全工事の完成まで7年、トンネル工事に許された期間は1年でした。映画「黒部の太陽」の舞台になった工事です。
当時、トンネル掘削における最高記録は全断面掘削工法で日進7.3メートルでした。それを持っていたのが熊谷組の大塚本夫氏と下請けの笹島信義氏でした。偶然にも笹島氏の生まれは富山県黒部市でした。大町トンネル完成には日進10メートルが必要でした。熊谷組は名誉にかけてこれに取り組みました。
昭和31年8月1日、いよいよトンネル工事がスタートしました。現場はどれだけ掘り進んでいっても岩質が良くなりません。岩石が良質であれば掘り貫いていくだけですが、ここでは鉄や木でつっかえ棒を施して進む必要がありました。作業は1日3交替、24時間操業で行われました。そして32年2月には日進11.34メートルという記録も打ち立てました。
掘削開始から9ヶ月目の4月27日・・・坑口から1,781メートル進んだ地点で「破砕帯」にぶつかりました。破砕帯とは軟弱な花崗岩が多量の水を含んでいてボロボロと崩れる部分のことです。大きな山鳴りと共に正面の岩壁が崩れ、水が噴出し、鉄のつっかえ棒が次々と押し潰されていきました。雪解け水の温度は摂氏4℃、それらが坑道に降り注ぎました。
それでも彼らは掘り続けました。掘っては崩れ、また掘り返しては崩れ・・・しかし彼らは進みました。5月から9月までの150日間で9.7メートル、一日平均6センチ余り・・・笹島以下現場作業員たちの不屈の戦いの記録です。笹島氏の後の言葉です。「お金や損得の問題ではない・・・誰もできないことだからこそ、俺たちがやらなければならなかった・・・」と。
噴出す水をなんとか減らすために、パイロットトンネル(迂回路)を何本も掘りました。破砕帯に何本もの大型ボーリング突っ込み水を押し出しました。当時の水の量はどれくらいかというと、トンネルの中に掘られていた幅1メートル、深さ2メートルの排水溝・・・湧き水はその溝をあふれながら激しく流れていたそうです。
途中太田垣社長も、水が噴出す崩れそうなトンネル先端まで視察しました。まわりの反対を押し切って「私が命令した仕事だ!そこでみんなが頑張っているんだ!」と危険な場所を進みました。このことは作業に関わるスタッフ全員を、どれだけ勇気づけたかわかりません。
9月下旬に最高の毎秒660リッターに達した湧き水が、10月に入って400リッターになり、11月下旬には200リッターと減っていきました。10月からは抜掘式工法(トンネルの周囲を少しずつ掘り、鉄材などで周囲を固め、次に中の土を掘り出す)や、ハイドロック工法(特殊な薬液を軟弱な地盤に注入し、周囲を固くしてから掘っていく)などを駆使して進めました。
こうして10月には26.1メートル、11月には24.6メートル進み、12月2日、目の前に一枚岩盤が現れました。ついに困難を極めた大破砕帯を抜けたのでした。坑口から1,863メートル地点です。82メートルの破砕帯を抜けるのに7ヶ月以上もの月日と、当時のお金で8億円という巨費が費やされました。
その後は全断面掘削に移って日進8メートルを超えるスピードで飛ばしました。年を越してからはいっそう順調に進み2月には日進20メートルを超える記録も打ち立てるほどに進みました。間組が黒部方面から迎え掘りをしていました。ほとんどが人力だけでしたが923メートルまで掘り抜いていました。
昭和33年2月25日午後7時40分、困難に困難を極めた大町トンネルが、この日ついに貫通しました。そして5月21日、全長5.8キロメートルの大町トンネルがいよいよ全面開通したのです。スタートから1年9日ヶ月目のことでした。
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