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2007年11月23日 (金)

RCZ創友会を設立

今週火曜日、当社で3つ目の「協力業者会」が誕生しました。鉄筋コンクリート住宅「VOX・RCZの家」でご協力いただいてる業者さんたちで構成する会です。「RCZ創友会」と名づけました。現在北陸においては、コンクリート住宅への認知が極めて弱いのです。それでこれまで私たちは、開拓者の精神で頑張ってきました。これからはパートナーの協力業者さんと一緒になって創り上げていく、また広めていく・・・そんな思いを込めて私が提案しました。総会でも無事ご承認いただけました。

設立総会では30社の方々にお集まりいただきました。冒頭の挨拶で私は次のようにお話しました。「RCZ創友会の目的は、お客様と当社を含めた工事関係者の皆さん、全員の幸せと繁栄にあります。まず工事に携わる職人さん全員が、一流の商品である『RCZの家』に、どうか誇りを持って仕事をしてください。それからみんなで大いに勉強し、知恵を出し合い、無駄やムラを省いていきましょう。大目標は限りない品質の向上です。みなさんからの意見は当社が100%聞きます。ぜひ有意義な会にしていきましょう」と。

初代会長には、重要な部分のコンクリート躯体を担当する、大和建設の小林社長さんに就任していただきました。まだお若いですが、仕事に対する理念がとてもしっかりされておられます。当社の考え方にも十分共感していただいてます。総会では素晴らしい所信表明をされました。3名の理事メンバーと共に、RCZ創友会をしっかりと引っ張っていってくれると確信しています。

また当日は、RCZ全国本部の早川社長が、はるばる北海道からお越し下さり、ご講演をいただきました。世界特許のRCZシステム発明の経緯とこの事業に賭ける熱い念い、全国の状況、将来への展望、そしてこの会への期待など、しっかりと述べられました。また「鉄筋コンクリート住宅はサッシを取り付けすれば、構造体だけで雨や雪、風、熱などを防ぐことのできる唯一のモノコック構造である」というお話に、みんなが改めて自信を持ちました。

懇親会では業者さんの席へ回り、おひとりおひとりとお話させていただきました。みなさんから「ぜひ意義のある会にして欲しい。自分たちもどんどんPRしていきたい。この会とクロダハウスに大いに期待したい・・・」などなど、頼もしい言葉をたくさんいただきました。1年目のテーマは「学び」と「改善」です。活気ある運営に向けて当社スタッフも深く参画していきます。大いなる希望をもって共に頑張りたいと思います。

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2007年11月18日 (日)

鉄筋コンクリート床暖房

金沢も今週後半からとても寒くなってきました。「VOX・RCZの家・金沢モデルハウス」では、昨日から「床暖房」のスイッチを入れました。昨日一日で床のコンクリートも十分に温まり、今日からとても快適な環境です。

壁には温度計を2ヵ所取り付けてあります。ひとつは床上20センチのところ、もうひとつは天井の下20センチのところです。今朝の温度は下が22℃、上は21℃でした。「頭寒足熱」の環境ですから頭も冴えます。蓄熱されたコンクリートから出る遠赤外線がじんわりと温めてくれます。身体が心底温まるので、寒い外に出ても苦になりません。

これから来年の春まで、スイッチはずっと点けたままです。暖かい日もあるので、そのときは室内の設定温度で調節します。エアコンは必要ないので止めておきます。やわらかな遠赤外線が空間いっぱいに広がって、身体をやさしく包んでくれます。鉄筋コンクリートの床暖房はまさに暖房設備の究極ですね。

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2007年11月17日 (土)

私の父は会社のまわりに何本もの柿の木を植えました。今ではかなりの年月が経ち、毎年たくさんの柿がなります。その色づきが濃くなって、いよいよ秋の終わりを感じさせてくれます。今年も豊作です。

ほとんどが富有柿ですが、その中に釣鐘型の渋柿があります。子供の頃から「どんぶり柿」と呼んでいました。それを家の中に置いておくと、柔らかく熟してとても甘くなります。家族はそれが大好きです。私は干柿が好きなので、その中の3分の一だけ家の軒下に吊るしました。去年も挑戦しましたが、まずまず美味しかったです。ただ毎日が待ち遠しく思うことが唯一の難ですね。

柿にはビタミンC、βカロテン、カリウム、タンニンが多く含まれ、特にビタミンCの量は果物の中でトップクラスだそうです。風邪予防や美肌にいいですね。その他の効能としては、高血圧予防、動脈硬化、脳梗塞、心筋梗塞、がん予防、二日酔い改善・・・などがあるそうです。

富有柿はこれからが採り頃です。社員さんにも大いに食べていただきましょう。

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2007年11月14日 (水)

超優良企業の視察

銀行の「若手経営者の会」で富山の超優良企業・コーセル㈱さんの視察を企画しました。北陸銀行さんのお骨折りで、創業者で現会長の「飴久晴氏」からご講演もいただけることになりました。とても貴重な機会なので、当社から幹部7名を連れて、一緒に昨日参加してきました。

コーセルさんは富山本社の「スイッチング電源」のメーカーです。その部品はロボットからCTスキャン、自動販売機、ゲーム機、プラズマテレビまで相当幅広く使用されています。創業39年、平成18年度決算で売上高206億円、経常利益62億2300万円、なんとその率が30%を超えています。経営者として信じられない数字です。

まず最初に、立山工場で会社の概要を説明していただきました。配られた資料に目を通して驚いたのは、平成15年から18年まで社員数が350人前後でほぼ変わらないのに、売上高が144%アップ、経常利益で183%アップだったことです。平成19年度は新たな研究開発や海外戦略に向けて385人と増えていますが、経常利益率は29.6%とやはり脅威の数字を続けています。

次に工場内を見学しました。精密機械はあまり詳しくありませんが、一見して機械台数に比べて人の数が少ないように感じました。非常に細かな部品を自動ロボットが素早く組み立ていきます。おそらく徹底した自動化と人の削減をされたのでしょう。素晴らしい合理化でした。

その後、富山市の本社に移動し飴会長の講演を聞きました。経営の根本のお話でした。まず「経営とは『入るを計り出るを制す』、小学1年生でもわかる引き算である。そのためにゼロリセットや新幹線発想で固定費と原価を圧縮する」・・・次に「社員や幹部が育たないのはトップ(社長)の責任である。枝葉を広げるより根を張ることが大事、時間をかけて地道に社員を育てること、そして人間関係能力の高い幹部を育てること」・・・おおまかにふたつのことを話されました。

移動時間を含めて約半日の研修でした。いただいた資料に改めて目を通すと、さらに深い本質が見えてきます。「企業は人なり」と「どんな環境にも強い」という2点です。社長としてやるべき課題がたくさんあります。まだまだこれからです。

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2007年11月 9日 (金)

黒四(1)始まり

10月28日の日記で書いた「お約束」、小説「黒部の太陽」とDVD「プロジェクトX・黒四」を4編にまとめてみました。どうぞご覧ください。

戦後復興が始まり、昭和20年代後半から世の中は深刻な電力不足にあえいでいました。家庭においては毎晩停電、工場では毎週「電休日」を設けなければならないという始末でした。「電力がどうしても要る」・・・当時関西電力社長であった太田垣士郎氏はついに立ち上がりました。

秘境「黒部峡谷」まさに秘境と呼ぶのにふさわしい・・・随所に人を寄せつけない断崖や急流、滝を造り、日本では他に例を見ないスケールの峡谷です。それゆえ黒部川は25分の1という急勾配、10キロで400メートルという落差です。そしてまれに見る多雨豪雪地帯なので電力生産には理想的な環境です。しかし反面、自然環境も施工条件も極端に厳しかったのです。電源開発計画は大正時代からありましたが、それが極めて危険で困難なためにずっと書庫に眠っていました。

黒部の第四発電所が完成すると、そこだけで25万8千キロワットという大きな発電が可能でした。それは当時動いていた下流の5つの発電所の総発電量に匹敵するものでした。また当時の滋賀県と奈良県の全電力需要に相当しました。さらに黒部川水系のトータルは、当時の関西電力の総発電量の30%にもなった訳です。「黒部しかない」・・・調査も資金もまったく不十分な中で、昭和30年、太田垣氏は不退転の決意で「黒四建設」を断行したのです。

昭和31年6月大手建設会社5社が関西電力本社に招かれました。ダム建設は間組、大町トンネルは熊谷組、骨材製造は鹿島建設、黒部トンネル(ダム~黒四発電所)と水路トンネルは佐藤工業、黒四地下発電所及び付帯の変電所は大成建設、各社それぞれが指名を受けました。最優先課題は「7年の工期」でした。1週間の猶予が与えられましたが、かいもく根拠になる算定基礎すらない状態でした。すべてに危険が付きまといます。しかし1週間後には全社が「無条件で請け負います」と返事をされました。

関西電力側は所長に平井寛一郎氏、ダムと大町トンネル担当は芳賀公介氏、黒部トンネルと地下発電所担当は竹中徳氏が決まりました。こうして世紀の大事業「黒四建設」が一斉に動き出したのです。

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黒四(2)大町トンネル

3,000メートル級の山々が連なる人跡未到の黒部峡谷に史上最大のアーチダムを建設する・・・セメント54万トン、砂利や砂を490万トン、2万トンの鋼材や、各種建設機械を必要とする・・・そのための絶対条件が大町トンネルの開通でした。全工事の完成まで7年、トンネル工事に許された期間は1年でした。映画「黒部の太陽」の舞台になった工事です。

当時、トンネル掘削における最高記録は全断面掘削工法で日進7.3メートルでした。それを持っていたのが熊谷組の大塚本夫氏と下請けの笹島信義氏でした。偶然にも笹島氏の生まれは富山県黒部市でした。大町トンネル完成には日進10メートルが必要でした。熊谷組は名誉にかけてこれに取り組みました。

昭和31年8月1日、いよいよトンネル工事がスタートしました。現場はどれだけ掘り進んでいっても岩質が良くなりません。岩石が良質であれば掘り貫いていくだけですが、ここでは鉄や木でつっかえ棒を施して進む必要がありました。作業は1日3交替、24時間操業で行われました。そして32年2月には日進11.34メートルという記録も打ち立てました。

掘削開始から9ヶ月目の4月27日・・・坑口から1,781メートル進んだ地点で「破砕帯」にぶつかりました。破砕帯とは軟弱な花崗岩が多量の水を含んでいてボロボロと崩れる部分のことです。大きな山鳴りと共に正面の岩壁が崩れ、水が噴出し、鉄のつっかえ棒が次々と押し潰されていきました。雪解け水の温度は摂氏4℃、それらが坑道に降り注ぎました。

それでも彼らは掘り続けました。掘っては崩れ、また掘り返しては崩れ・・・しかし彼らは進みました。5月から9月までの150日間で9.7メートル、一日平均6センチ余り・・・笹島以下現場作業員たちの不屈の戦いの記録です。笹島氏の後の言葉です。「お金や損得の問題ではない・・・誰もできないことだからこそ、俺たちがやらなければならなかった・・・」と。

噴出す水をなんとか減らすために、パイロットトンネル(迂回路)を何本も掘りました。破砕帯に何本もの大型ボーリング突っ込み水を押し出しました。当時の水の量はどれくらいかというと、トンネルの中に掘られていた幅1メートル、深さ2メートルの排水溝・・・湧き水はその溝をあふれながら激しく流れていたそうです。

途中太田垣社長も、水が噴出す崩れそうなトンネル先端まで視察しました。まわりの反対を押し切って「私が命令した仕事だ!そこでみんなが頑張っているんだ!」と危険な場所を進みました。このことは作業に関わるスタッフ全員を、どれだけ勇気づけたかわかりません。

9月下旬に最高の毎秒660リッターに達した湧き水が、10月に入って400リッターになり、11月下旬には200リッターと減っていきました。10月からは抜掘式工法(トンネルの周囲を少しずつ掘り、鉄材などで周囲を固め、次に中の土を掘り出す)や、ハイドロック工法(特殊な薬液を軟弱な地盤に注入し、周囲を固くしてから掘っていく)などを駆使して進めました。

こうして10月には26.1メートル、11月には24.6メートル進み、12月2日、目の前に一枚岩盤が現れました。ついに困難を極めた大破砕帯を抜けたのでした。坑口から1,863メートル地点です。82メートルの破砕帯を抜けるのに7ヶ月以上もの月日と、当時のお金で8億円という巨費が費やされました。

その後は全断面掘削に移って日進8メートルを超えるスピードで飛ばしました。年を越してからはいっそう順調に進み2月には日進20メートルを超える記録も打ち立てるほどに進みました。間組が黒部方面から迎え掘りをしていました。ほとんどが人力だけでしたが923メートルまで掘り抜いていました。

昭和33年2月25日午後7時40分、困難に困難を極めた大町トンネルが、この日ついに貫通しました。そして5月21日、全長5.8キロメートルの大町トンネルがいよいよ全面開通したのです。スタートから1年9日ヶ月目のことでした。

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黒四(3)巨大アーチダム

間組は大型土木機械を駆使して、丸山ダム・佐久間ダムなど次々と完成し、ダム構築に新時代を開いてきました。その功績を見込まれて、難関の黒四ダムの指名を受けました。責任者は中村精(くわし)氏、「どんな仕事も食らい付いたらやり遂げる・・・マムシの異名を持った男」でした。

完成まで7年、絶対に遅れは許されない・・・ダム工事もトンネル着工と時を同じくして、作業員たちが立山を越えて準備工事に入りました。トンネル貫通が少しでも早くなるようにと、満足でない器材で黒部側から岩盤を掘りました。また少しでも工事を早く進めれるようにと、ブルドーザーを立山超えで現地に入れたほどでした。仮説宿舎で2度の冬を越しました。

そしていよいよ待ちわびた「大町トンネル」が開通しました。機械や資材がどんどん運ばれてきました。ダムの本格着工に全員が意気込みました。高さ186メートル、長さ492メートル、2億トンの水を溜める史上最大の巨大アーチダムです。しかし残された工期は5年でした。その間に黒部川を堰き止め、未開の山肌を切り崩し、日本一のダムを造らなければならない・・・中村氏は大胆な作戦に出ました。

「深い山肌を一気に吹き飛ばす!」火薬の総量80トンの空前の大発破でした。6月20日、関西電力の太田垣社長も見守る中、発破は大成功・・・予定通り山肌の土を吹き飛ばしました。続いて優秀なブルドーザー部隊がどんどん土を削り去って行きました。幾度とない雪崩や落石・・・彼らはへこたれずに頑張り続けました。さらに34年9月には、伊勢湾台風が現場を襲いました。黒部川は激流となり、堰き止め用の防波堤を押し流し、川べりの宿舎までもを流し去ってしまいました。

「もうこれ以上遅れることは許されない」・・・工事のスピードは400万トンのコンクリートをいかに早く打設するかにかかっていました。10月に凄腕のクレーンオペレーター、安藤忠義氏が現れました。それまでは4分半かかっていたものを彼は3分半でこなしました。それでも中村氏は許可しませんでした。「まだ遅い。3分以内で運転しろ!」と。それに応えて安藤氏もどんどん早くなっていきました。まだまだ工事のスピードを上げなければならないということで、それまでの1.5倍の大きさのバケットが現場に持ち込まれました。「これまで通りの3分だ!」・・・安藤氏は毎日12時間、必死でレバーを握って頑張りました。

コンクリートの打設量、1日8,653立方メートルという新記録が打ち立てられました。こうしてダムは加速度を上げてどんどん進んでいきました。昭和35年11月、ひとつ目の発電機がウナリをあげて動き出しました。15万4千キロワットの発電が開始され、いよいよ電気が関西へと送られたのです。そして昭和37年8月、この日から最後の発電機が動き出し23万4千キロワットの発電が行われました。それから10ヶ月~昭和38年6月5日、黒四建設のすべてが完成し、竣工式が執り行われるに至りました。

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黒四(4)終わりに

時を同じくして、断崖と急流だけの秘境・黒部峡谷で、大成建設は深さが200メートルにも及ぶ地下発電所を、佐藤工業は作業トンネルと水路トンネル、それぞれ10キロメートルの工事にかかりました。

作業員を大勢集めても、現場を見て2割の人は逃げて帰るという状況でした。1年の3分の1は雪に覆われ、気温は氷点下20℃にもなる、雪崩が襲ってくる・・・そんな中でも一時も作業は止められない・・・それほど厳しい環境でした。さらに地下発電所の掘削工事は地熱帯にぶつかりました。岩盤の温度は摂氏100℃、皆が熱中症で倒れていく・・・それでも仲間同士、水をかけ合いながら掘削を続けました。そうして電気が予定通り関西へと送られたのです。

実際に「黒部」を見て、また資料を読んで、建設業の偉大な意義を再認識しました。偶然にも先日、「学生時代に『黒部の太陽』を観て土木工事に憧れ、熊谷組に入社しトンネル工事に携わってきた」という方にお会いしました。現在はあまり元気がない建設業界ですが、その中で生きるひとりとして、今一度大いなる誇りをもてる業界になってほしい・・・そんな思いでこれを書いてきました(恥ずかしながらも・・・)。

黒四建設における作業延人数は1,000万人と言われます。そこから想定しますと、この「世紀の大事業」に従事された人数は、おそらく1万人近い数になるのでしょうか。その方々全員が、同じ目標に向かい、強い使命感に燃えて、すさまじい闘志で頑張り抜いた!・・・だからこそ期日通り完成を見て、しいては「そのおかげで今日の日本があるのだ」と感じさせられました。不運にも尊い命を落とされた171名の殉職者の方々を含めて、私たちの大先輩に心から感謝したいと思います。

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2007年11月 1日 (木)

建設業ネットワーク

私は若い頃から、大阪の「日本創造教育研究所」というところで、能力開発や会社経営などを勉強をしてきました。この度そこが「建設業」に携わる会社を集めた全国ネットワークを作ってくれました。そしてまず昨日、西日本だけで100社余りの企業が大阪に集まり、第一回の勉強会が開かれました。

近年では建設業が不況業種のNO1と言われます。談合体質、業界の都合、どんぶり勘定、耐震偽造などイメージも大変悪く、あらゆる方向で建設業を取り巻く環境が一気に厳しくなっています。全国どこの建設会社も生き残りをかけて一生懸命です。

頑張っている者同士が知識や情報を共有し、共に学び共に成長し、さらには建設業界全体のレベル向上につなげていく・・・そんなネットワークであります。とても喜ばしいことです。当社もそこで大いに勉強し、当社の良いところは発信していき、ぜひとも社員が誇れる業界にしたい・・・そんな希望をもって金沢に帰りました。

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